「最後に笑って死にたい」と言うけれど

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よく「天命だ」とか「運命だ」とか言うじゃない。

分かる気がするんだよ。

これが答えだ」とか「これが正しいんだ」とか「これが使命だ」とか。

人間そんな「揺るがぬものを得た感覚」や「“天啓み”のある瞬間」が稀によくある気もするけど。

…おそらく、それは「錯覚」か「後付け」で。

実際にはそんな”絶対的なもの“は無いよね。

その「奇跡的だと思う気付きや出会い」の後だって

嫌に感じることも、失敗することも、ブレることも、ヘコむこともある。

ただ、人生はこういう「幻想ガソリン」とでも言えそうな燃料をしばしば精神に補給しつつ、走り続けるしかないのかもな… とも思う。

人生、良い時もあれば、悪い時もある。

…いや、悪い時ばっかりの人もいるかもしれないけど。

良い時ばっかりの人は…いない気がするな。

だって、ネガティブな感情は生存に有利だから人間に標準装備されているわけで、「ずっとネガティブにならない」とかだと生きていくのに不利そうだし。

そういえば、よく「最後に笑って死にたい」的なことを言う人いるよね。

カッコよく響くから「いいね!ボタン」を押したくなる一方で、死ぬときに笑っているかどうかは、ただの確率じゃないかなとも思う。

だって、ゴリゴリに病気やケガしたらどうやったって落ち込むだろうし。

それに、「笑って死にたい」の「笑って」って幸せの比喩表現でしょ。

表情筋の状態の話じゃないでしょ。

もちろん、「終わり良ければ総て良し」の精神で「最後に笑って死にたい」というのは、魅力的なゴールテープの切り方かもしれないけど、このスタイルだと最後の瞬間までその目標を達成できるか分からないよね。

それなら、むしろ「死ぬまでに笑っていた時間の比率が一番多くありたい」みたいな目標の方が、実感を持つことができるんじゃないかと思う。

ただ、これもある側面では、そもそも”幸福を追い求めるため“に人間は活動していて、人間は幸福を追求することを辞めた時に死ぬ気もするので

最後ギリギリまで、できるかできないかの緊張感」を維持した方が、人間やる気を保てそうな気もする。

そういう意味では、死ぬ前に達成できそうな目標を持つことは微妙かもしれない。

もしかすると、振り返って満足できるような人生を積み重ねれば、死ぬときにどんな状態でも「笑って死んだ」ことになるのだろうか。

いや、結局は

眼前の恐怖も想像力の生みなす恐怖ほど恐ろしくはない。

シェイクスピア

 ということなのだろうか。

 

よく分からない。

 

分かるべきでない気もする。

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