最近は「個性の多様性を認めること」が流行っています。
そして、一昔前なら認められなかった多くの主義・主張・趣味・趣向が、“多様性”の名の元に認められつつある気がします。
これによって恩恵を受けて生きやすくなった人も多くいると思います。
しかし、一方で「個性の多様性を尊重する」という思想の「“多様性”」には「“個性の多様性を尊重しない”という個性」を含んでいない場合が多そうだな
とも感じます。
しばしば見かけるのが、
“一昔前の価値観” ≒ “[個性の多様性を受け入れない]という個性“を持つ人に対して、「個性の多様性を認めることが大切な時代なのに、何で私の個性を認めないの?」
的な詰め方をしている光景です。
“感情的な攻撃欲求“を大義名分という名のオブラートに包み、マジョリティの威を借りて殴っていくスタイルは、いつの時代・どこの場所でも使える有効な手法かもしれません。
しかし、冷静に眺めると“多様性”を排除する大義名分に“多様性”が使われている光景には論理のバグみを感じます。
「寛容な社会を維持するためには、社会は不寛容に不寛容であらねばならない」
カール・ポパー 寛容のパラドックス(paradox of tolerance)
寛容のパラドックス - Wikipedia
やはり、直接的になんの捻りもなく「私の個性も!認めて!!」だけではトレンドを作るのは難しいのでしょうか。
…医療技術の進歩によって平均寿命が延びてきたので、これからさらに世代の多様性が高まっていきます。
「常に流行を追えない人」や「トレンドにそぐわない人」と、「多様性の尊重」。
果たして勝者と敗者の問題か。
バランスの問題か。
それとも…?
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