「本当の○○」、べつに「本当の○○」じゃない説

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しばしば、「本当の○○」という言い回しを見かけます。

 

本当の正しさ

 

本当の愛

 

本当の自分

 

などなど。

 

しかし、この「本当の○○」という表現は
(それに付随する内容や、主張の良し悪しは置いといて)
「あんまり良い表現とは言えないよなぁ」と思ってしまいます。

 

というのも
どれも 自分の主義・主張と絡めた「○○」の解釈
本当の○○」としてパッケージして陳列されているだけ だと感じるからです。

たしかに、言語は人間に与えられた素晴らしい道具です。

しかし、人間同士が
言語だけで完璧に意思疎通を図るのは
それはそれで無理がある と思うんですよね。

なぜなら、「言葉の定義」を掘りまくった先に
必ずしも言葉と100%リンクする感情や現象があるとは考えられないからです。

そもそも、言葉自体が“本当”と”本当はでない”の狭間を浮遊していると感じます。

だから、「本当の○○」は自らの主張への”ふりかけ”であり、
相手の思考の余地を奪う言葉遊びに思えてならないのです。

というわけで、「本当の”本当の○○”」について考えた話でした。笑

 

 

 

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