言葉と意味

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ふと思ったことです。

ひっそりと書いたので、読む人はひっそりと読んでください。

「言葉を疑う」という視点

色々な言動に対して「どうして?」「なぜ?」と理由をきかれたら、ある程度それらしい理由を語れる人がほとんどだと思います。

でも、「それを信用しすぎるのはどうなの?」という話です。

 

人間は、色々な判断を下す時に、論理的な理由・理屈を語ります。

しかし、よほど気をつけていない限りこれは自覚が無いただの後付けです。

実際はただ単に「好きだから・嫌いだから」・「良いと思うから・悪いと思うから」など、かなり直観的・非論理的にその判断を下しているらしいのです。

 

つまり、さまざま語られる”理由”の根底にあるものは「論理的で体系的でしっかりとした何か」ではなく喜怒哀楽などの単純な情動である可能性が高いわけです。

では、なぜこんなことが起こるのでしょうか。

人間の認知には偏り(バイアス)がある。

理由は、人間が論理的にしか考えられなければ、それはそれで都合が悪いからです。

複雑な理由を構成するためには情報をしっかりと集めないといけません

また、論理的な判断をするには脳に過大な負荷がかかり結論を出すまでに多くの時間を要します。

全ての情報に対して、そんな処理の仕方をしていては色々な不具合が出てしまいます。

特に、一瞬の判断が命を分ける状況で、こんな負荷と時間がかかる情報処理しかできなければ即死ですよね。

 

したがって、脳の負荷を抑制するため、問題に概ね正しそうな答えを即座に出す”ショートカット的な機能(ヒューリスティックス)”が必要になるわけです。

このような理由から、人間の認知には偏り(バイアス)が生まれるそうです。

例:確証バイアス・ハロー効果

たとえば、几帳面な人を見ると「A型でしょ!」みたいに血液型で相手の人間性を判断しようとする人がいます。

もちろん、実際に「几帳面な人」には”血液型がA型の人”も、”そうでない人”もいるので、論理的に考えるとこの判断はおかしいです。

しかし、これは無意識のうちに自分に都合のいい情報(几帳面なA型の人存在)に注目してしまう
確証バイアスという認知の偏り(バイアス)の一種です。

脳が足りない情報に手っ取り早く理由をつけようとするために起こるものらしいです。

 

他にもイケメンや美人を見ると、性格や能力まで良く見える(ハロー効果)なども有名ですね。

このように、人間はバイアスという歪んだレンズを通してさまざまな物事を見てしまいます。

ですので、「言葉には論理的な意味はあまり無い」・「人間の認知は偏りがある」という視点から物事を考えてみたいと思います。

(ある意味これも歪んだレンズかもしれませんが)

ディベートは「ディベートが強い人」が勝つ

ディベートは「あるテーマについて肯定と否定側に分かれて議論」をするものです。

ディベートは、内容の正当性よりもただ単に「ディベートが強い人」が勝ちます。

「ディベートが強い人」とは自分の主張を論理的に分かりやすく相手や観衆に対して伝えられる人です。

たとえば、

「これは、こうすれば上手くいく!」と自分の意見をはっきり分かりやすく言う人と

「このやり方だと上手くいくはずだが…、…そうでない可能性もある…かも…」と自分の意見に含みを持たせる人のどちらの言説に、説得力や求心力があるかというと

十中八九①前者です。

 

 

実際にどちらの内容に正当性があるかどうかはこれだけでは判断できません。

しかし、大半の人は無意識のうちに“態度”や”言い回しの尤もらしさ”から正当性の判断してしまいます。

正当性について

そもそも「内容の正当性」なんて本当にあるのか?という疑問もあります。

この世の中には明確な答えのない問題がたくさんあります。

 

ポジショントークという言葉があります。

基本的に人間は立場を完全に切り離して意見するのは非常に難しく、自分の利益につながる内容が「正当性がある」意見であり、ほとんど場合この前提で話をします。

たしかに、露骨に自分のポジションの利益になる話ばかりをしていた場合は、多くの聞き手も気づきます。

しかし、「ディベートが強い人」は、上手く負の側面を隠しながら相手が納得できるように自分の意見を展開できます。

“論理的である”と、“自分のむき出しの意図や感情を上手くオブラートに包み込んで”伝えられます。

良い悪いは別として、同じ内容でも言い方が違うだけで受け取り方が変わる経験は誰しもあるのではないでしょうか。

本人すらも気づかない本心

さらにここから踏み込んで

場合によっては実際に話している本人すらも、どこまで自分の本心や意図であるか分かっていない場合」について考えたいと思います。

…人間は感情を言葉に変換して他人と共有します。

そして、言葉には意味を厳密に定義できないものがたくさんあります。

楽しい、美しい、苦しい、つらい、エモい… など

これらは、なんとなくみんなで意味を共有できているけど、使っている人の様子や文脈から、千差万別の感情を映し出せる言葉だと感じます。

 

…ここで、いきなりですが、『ジョジョの奇妙な冒険』というマンガに

 

プロシュートというキャラクターがいるのですが、このキャラクターのセリフに

「ブッ殺す」と心の中で思ったならッ!その時スデに行動は終わっているんだッ!

荒木飛呂彦ジョジョの奇妙な冒険集英社 

というものがあります。

これは、このキャラクターの危ない人物像や、異質性を読み取れる印象的なセリフです。

このように、良質なマンガや映画などは、セリフや動きに対して(わかりやすく描写されているかどうかはさておき)しっかりと意味や意図を持たせている場合がほとんどです。

なぜなら、ページ数や時間など限られたリソースに無駄な情報を入れるのは無意味だからです。

ストーリーに持ち込まれたものは、すべて後段の展開の中で使わなければならず、そうならないものはそもそも取り上げてはならないのだ。

チェーホフの銃

しかし、現実世界の人間はいつもそんな感じにはいきません。

たとえば、「死にたい」と言った人が、全員文面通り“今すぐ死ぬ”、もしくは”死にたい”わけではないと思います。

このように、現実世界で語られる言葉は辞書的な意味に加えて、感情の機微が込められたものも多いのではないでしょうか。

 

ただ、一方で元々は「喜怒哀楽など単純な情動」だと考えれば、結局は元々意味があるようで無いところから発生しているので言葉の意味や理由をひたすら追及していっても、時にそれは不毛ではないか?

とも思います。

「論理的」の攻撃力の高さに気付かない危うさ 

現在は論理的に正しさが尊重されるし、尊重されなかったとしても、暗黙の了解として論理的な正しさは価値を持つことになっています。

実際に僕も、論理的な思考は千差万別の感情や知識を他人と共有するために、少なくとも現在人間が持っている中では最良の手段の一つであると思っています。

しかし、

 

(今回の記事で僕の一番言いたい所、ここなんですけど)

たまに論理的であることが、論理的でない相手をめちゃくちゃにぶん殴っても良い免罪符のように感じる時があります。

つまり、論理的な正しさが正当性を持つので、「論理というツールを上手く使えない人をボコボコにすることにも正当性がある」雰囲気を感じるわけです。

もちろん、誰しも聖者ではないので、時には論理を使って戦う必要がある場合もあるでしょう。

ただ、これはあくまで現在”「論理的であることに正当性がある」という暗黙の了解“があるだけで、同時に「相手を攻撃しているのには変わりない」と思います。

この点に無自覚な人が多いのでは?と感じます。

たとえば

「あなたの行動は○○といった問題があり、許されない。なぜなら~」

みたいな話し方と、

「お前キモい。嫌い。」

みたいな話し方は、前者にはそれなりの正当性を感じられそうですが、後者にはあまり正当性を感じられません。

ただ、これを言わせている根源的な感情はそれぞれ果たしてどの程度違っているのでしょうか。

違和感を覚える言い回し

ここで、少し違和感を覚える論理展開というか…

表現が難しいのですが、そういったものについて感じたことを書きます。

「意見と人格を切り離して論理的に議論をするべき」 

議論をする時に「意見と人格を切り離して論理的に議論するべき」とよく言われますし、これは建設的な議論をするために必要そうであり、正当性を感じられます。

 

ただ、この言葉は場合によって攻撃手段にも使えるなとも感じます。

なぜなら、「意見と人格を切り離す」のは誰しもが「やれと言われたからといって簡単にできるものではない」からです。

そもそも、みんな自然とできていたらわざわざ言う必要ないですしね。

 

論理的に議論するのは

「今から論理というルールに則ってお互い殴り合いをするよ」

という“前提”の上で

「意見と人格を切り離す」

という”受け身”がとれる人がやる スポーツ的な側面がある気がします。

 

ルールが分からずに受け身が取れない人にとって論理的に追及されるのは、ガードができないのに、ひたすら殴られ続ける状態であるわけです。

そういう視点で見ると、心得が無く、受け身もできずひたすら論理で殴られている人は、反撃しようにも「反撃したい・相手を倒したい感情 論理でコーティングできません。

そうなると、”機嫌を悪くする“など感情をそのままむき出しにして反撃するしかないわけです。

ここで「意見と人格を切り離して論理的に議論するべき」と言葉をかけるのは、ある種オーバーキル的です。

まぁ、ルールに則って勝つための一手としては鮮やかでしょうけど。

 

…なんというか…たしかに弱いとそこに付け込まれるので、こういう”勝ち筋“や“力”“力を揮う選択肢”は必要だと思います。

ただ、あまりに「論理的=正しい」が当たり前になり過ぎて”力を揮っている”こと自体を忘れてしまう時は無いでしょうか。

「人を○○で判断してはいけない」

これもよく言われる言葉です。

この言葉について思うのは

「人を○○で判断してはいけない」論理を実際に「人を○○で判断している人」を直接攻撃するために使うのはどうなの?

ということです。

この言葉は啓蒙的な使い方か、自分への戒めとして使う方が良い気がします。

なかなか難しいと思いますが。

「人を攻撃してはいけない」 

他にも○○してはいけない系つながりで「人を攻撃してはいけない」と言われます。

しかし、この論理を使って「人を攻撃している人」を攻撃すると、ある種の矛盾や無限ループ状態に突入してしまう気がします。

そのために「人への攻撃」には表面上でも矛盾しないために「正義」とか「マナー」とか色々な差別化するアタッチメントみたいな概念があるのでしょうか…。

おわりに

そういえば、子どもに「なぜ○○をしたの?」とか「なにが楽しかったの?」など理由をきいても上手く答えられない、もしくは循環論法的な答えが返ってくるときがありますよね。

 例)
Q.どうして あのおもちゃが好きなの?
A.好きだから! 

もともと、人間が何かを語る理由とはこの程度であるのに、成長とともに理由を上手く綺麗に飾り付ける方法を身に付けていき、いつしか飾り付ける前の中身がぼやけてしまうのかもしれません。

とはいえ、 “放たれた矢”のことばかり考えても、それもしょうがないのかもしれません。

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