音楽など芸術教育について思うことを、まとめてみました。
「芸術」の教育は、最初から「自由」でいいのか?
「芸術」は「自由であるべき」なのか?
「芸術」は「自由」であることが良しとされる場合が多いです。
そして、「既存のものに捉われず、独創的であるべき」で、「才能がある者にしか理解できない」雰囲気を醸し出しています。
こういった「芸術観」はアーティストが自身のブランディングに使用する分には良いと思います。
しかし、そのまま教育に持ち込むのはあまり良くないと考えます。
なぜなら、他の分野と同じく「芸術」にも”型”はありますし、基礎的な知識や技術の上に「自由で独創的に見えるもの」が形作られているに過ぎないからです。
また、クオリティが高くオリジナリティのあるものが評価され、高いレベルの内容を簡単に理解できないのは、どの分野も同じだと考えます。
“型”を教えると「個性」を失う?
しかし、 芸術分野の教育では、芸術のブランディングイメージ通りに「独創的・個性的」であることが高く評価され「”型”にはまったもの」は微妙な捉え方をされる場合が多いです。
「初めから”型”を教えると、独自の表現や個性を失う」といった意見もその一つです。
もちろん、個性や感性は尊重されてしかるべきです。
しかし、一方で「自分の感性を表現するのに必要な知識や技術」を与えずに「自由にやらせる」のはある意味で地獄だと思います。
なぜなら、この場合「自分の感性を表現するのに必要な知識や技術の無さ」を自覚している場合は、自分の理想とのギャップに苦しみ、自覚していない場合は、周りの評価とのギャップに苦しむことになるからです。
「型があるから型破り、型がなければ形無し」
十八代目 中村勘三郎
「国語」と「音楽」の教育の比較
“できる”とは?
そもそも、「何かが “できる”」とは、“それを使って何かを考えたり、表現したりできること”(=思考力・判断力・表現力の獲得)だと思います。
教育の目的は、特定のものを”できる“ようにさせるのが大切ではないでしょうか。
教育の方法の違い
実際に、日本の義務教育の国語では国語を“できる”ようにさせるために主に「話す」、「聞く」、「書く」、「読む」という4つの視点から教育をしています。
みなさんも、この日本語の記事を読み進めているので、ある程度国語は”できる”はずです。
日本の義務教育を受けて、“全く日本語ができない人”があまりいないのを考えると、この教育の方法はそれなりに効果があると考えられます。
一方、音楽や図画工作・美術も義務教育に含まれています。
しかし、日本語に比べて”できる”人は少ない気がします。
もちろん、国語と比べて授業の時間数や日常生活で使う頻度の差もあります。
ただ、「そもそも国語と同じように教育をしていない」こともまた原因だと思います。
教育内容の比較
たとえば音楽ですが…
このように、義務教育の国語学習の内容を音楽学習に置き換えた場合、緑色の文字の部分はやられていない場合が多いです。
この比較から考えると、「音楽が”できる”ようになるため」には、そもそも「写譜」や「作曲」など他の要素も同時に学習した方が良いのではないか…と思います。
最初は「①観察」と「②批評」と「③模倣」
もう少し抽象化してまとめると、僕は芸術的な能力を身に付けるためにやるべきなのは、「①観察」と「②模倣」と「③批評」だと思っています。
①観察
まずは、手本となるものを「①観察」をします。
たとえば音楽なら、歌詞、メロディの運び、和音の流れ、リズムの重なり、使用楽器などなど…対称を細かい要素に分けて「①観察」していく過程で、芸術を見る視点を増やせます。
僕も未だに意識的に色々な作品を「①観察」するようにしています。
たとえば、この記事の内容も「①観察」の末に思いついたものです。
②模倣
次に、「①観察」を通して気付いた細かな部分を、踏まえて対称を徹底的に「②模倣」します。
「②模倣」には、自分の技量を上げるのと「①観察」だけでは分からない芸術の構造を理解するのに役立ちます。
③批評
そして、「①観察」と「②模倣」を通じて気付いたことを踏まえて対象を「③批評」します。
芸術には文脈が大切です。
ただの音や紙などが、文脈次第で「芸術」になるわけですから。
「③批評」を通して、「自分にとって適切な芸術との距離の取り方」を学べると考えます。
これらの活動を通して 芸術作品を作るために必要な「抽象化して、具体化する能力」の獲得が期待できます。
芸術以外にも応用できる
応用できる…というか、むしろ国語学習などでは既にこのやり方が一般的です。
たとえば、文字を習うときは手本を「見る」、「なぞる・書きとる」、「テスト」といったプロセスを踏んで文字を修得していきますよね。
これも概ね「①観察」と「②模倣」と「③批評」をしていると考えられます。
さいごに
何でも教育の責任にしない
人間は何かと「何かのせいにしがち」です。
もちろん、本当にそういう場合もあると思います。
しかし、責めるだけでは解決しない問題も多いはずです。
今回の記事の内容は、「教育のやり方のせいで芸術的な能力が育たない」と結論付けるのではなく
「芸術も基礎が大切である」
「国語などの教育方法を真似すれば効果があるんじゃないか」
といった視点を紹介するのが趣旨です。
「正しい教育」について
そして、「絶対に正しい教育」は無いとも思います。
何かを教える時は「誰かを教育しようとするなど、所詮は思い上がりである」という自戒を持ち続けた上で 「”知識“と”経験“と”情報“」を「”教育を受ける相手“や”時流”」と照らし合わせて、今の段階で「正しそう」とか「効果がありそう」なものを泥臭く探していくしかないと思います。
「単純化」や「明快な言説」は求心力を生みますが、注意も必要だと感じます。
今回の記事の内容も、これらのことを踏まえた上で参考にしてもらいたいです。
では!